( せつげいきょう )
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[ SETSUGEI BRIDGE ]
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「瑞光寺」(大阪市東淀川区瑞光本通)の境内に架かる橋で、現在の橋は六代目である。
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聖徳太子が42歳のとき、香木で彫刻したという伝承をもつ聖観世音像を本尊とする瑞光寺(東淀川区瑞
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光2丁目)の境内には、欄干が鯨の骨で造られた小さな石橋が架かり、雪鯨橋と呼ばれている。
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寛永20年(1643)、この地を訪れた伊予国大洲の僧天然は、三宝寺の旧跡といわれる白砂の地に松を植
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え、その林に庵を結び聖観音を奉拝した。寺名は指月寺といったが、第2世の北禅和尚は、享保14年(172
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9)、近くにあった瑞光院のお堂を移したのを機に、山号を天然、寺名を瑞光寺とした。
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この橋の由来は、宝暦6年(1756)、第4世の潭住禅師が南紀の太地の浦に立ち寄ったことに始まる。この
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地では人々は捕鯨によって生計を立てていたが、しばらくの不漁続きで食料にもこと欠く状況であった。禅師
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は、村長(むらおさ)の豊漁祈願の嘆願に、”殺生は五戒の一つ”として断るが、彼らの哀願に”寸悪尺善の
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法”と祈願に応じる。
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霊験はたちまちに現れ、村の飢饉は一朝にして豊年となった。漁民たちはこの恩に報い、黄金30両と鯨の
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骨18本を寄進した。
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禅師がこれをもって寺内の弘済池に雪鯨橋を架け、鯨の冥福を祈った。最初は欄干や橋板などは全て鯨
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の肋骨、欄干支柱は顎骨で造られていたが、天明の頃から橋板のみは石に換えられたという。
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「瑞光寺」石柱
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雪鯨橋
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側面
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高欄
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鯨の骨の門柱
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五代目の欄干の鯨骨
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説明板
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